しまった。本当にしまった。気づくのが遅かったみたい。
ホントに申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。
いや、これは厳しい、今の自分にとっては。何もかもが突き刺さる。
右のわき腹の下のあたりをグリグリ彫刻刀で刺されるような感覚(そんなことはされたことないけど)。
上巻の後半あたりからすでに厳しくて、思わず笑いがこみ上げるぐらい(自分はテンパルと笑ってしまうタイプ)くらい。本を叩き付けたい衝動に駆られる。朝の満員電車の中で本気で困った。
そっか、なんとなくこの本を避けてきた理由が分かってきた。
よく分からなくてごめんなさい。なんとも説明しがたい感覚なので。
下巻の最後までとことん付き合ってみるかな、たまには。
その前にウィスキーでも用意しないと。
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読んでいて、ふと思い出されたのが、高校のとき倫理の授業でならったこと、「人間の定義」の話。
人間の定義としては、ホモ・サピエンス(知恵の人)という定義がもっとも有名ですが、それ以外にもホモ・ルーデンス(遊ぶ人)、ホモ・ファーブル(工作する人)、そしてホモ・デメンス(狂った人)などがあります。
それぞれ意味しているところはおもしろいのですが、特にホモ・デメンスに自分は感心していました。「狂った人」というのは、「人間は本来もっている野生が狂ってしまった動物である」(うろおぼえ)という意味だったはず。
野生が狂ってしまったことで知恵を持ち、文明を築き、自然を破壊して生きているということ。
村上春樹の小説にはそれぞれ狂った人が出てきて、その狂いが話を進めるドライビング・フォースとなります。そういう人たちが狂っているけど、でもそれ故に人間性豊かに見えてしまうのはなぜか、そう思うことがよくありました。
それはおそらく人間はそもそもその生い立ちから何かしら狂って、それを強く意識させられることで、人間としての認識が高まっていく。狂っている人がおかしいのではなく、狂っていることを意識できない人がおかしい、という見方を提供しているのかもしれません。
自分は狂っているのか? それは肯定できます。狂っていて、歪んでいる。でも、それが“正しい”ありかたなのかもしれない、でもそれでずいぶん人を傷付けまくっていたのだ、そう思う雨の夜。