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Serious Boild アーカイブ

奨学金に感謝。

今日、自分の口座の残高確認したら、思っていたより多かった。
奨学金の残りが想定していたのの2.5倍ぐらいあって、(借金なのに)はっぴーな気分になったよ♪

奨学金にはお世話になったわ・・・親のすねかじりは絶対するものかと、大学生になったときに誓ったもので、それなりに苦労はあったけど、やってみれば出来るものですね。入学金と学費、大学と大学院合わせて500万円ぐらいかな。それにバイト代から出した食費やらなんやらで、大学にいた6年間に1000万円以上投資しているわけか。うーん、ちごいね。まだ国立だったからいいものの、私立にいってたらどうなっていたことやら。お金がない人が勉強するのってやっぱり大変だと、実感としてそう思います。

成績がいい人には奨学金が与えられるみたいな制度はあると思うんですけど、逆に「勉強が苦手なやつは大学に行くな」ということになって、ますます格差が広がっちゃうとも言えるのではないですかね。

勉強が苦手→奨学金がもらえない→大学へ行かない→所得格差→教育費削減→勉強が苦手・・・

というスパイラルになっている場合が少なくないと思うんです。所得と学歴にはやはり強い相関があるし、お金持ちは勤勉だ、というよりお金持ちは勉強する機会を他より多く与えられている、ということなのだと思います。もちろんそのチャンスを生かすかどうかは努力次第だと思いますけど。

自分の家ははっきりいってお金は全然ないです。学費は自己負担で当たり前という状況でしたが、でもやっていけたのは、良い師に会えたおかげだと思います。親もそうですし、普通の公立中学校でしたが、すばらしい先生方に出会え、良きライバルにも恵まれ、それをきっかけに頭が悪いなりに「なにくそやってやる」と反骨一筋で大学まで来られたのは「幸運」の一言につきるでしょう。
たまに謙遜でそういっていると思われることがあるみたいですけど、はっきりいって自分がいまのところにいるのは完全に「幸運」のおかげです。自分の頭の悪さは、日本人平均を下回ること間違いないですから(残念ながらホントなのよw)。
これらからもう「幸運」に頼るのをやめないと生きていけないだろうと。もっと自分をびしばし鍛えないと。

さて、お金もそこそこあるみたいだし、これで新生活も春休みも怖くないぞ!

あともう一回ぐらい旅行に行けそうだなぁ。
どこ行こうかな♪ 海外もいいけど、国内にも行きたいところあるし、暇な人探してみるか。青春18切符が安いらしいし、電車の旅も悪くないかな。

大統領の絞首刑

イラクのサダム・フセイン元大統領の死刑が執行されましたね。

ネット上で死刑直前の画像が出ていてちょっとビックリしました。絞首刑だそうです。
絞首刑は「ダンサー・インザ・ダーク」を見て以来怖くて仕方ないですね。日本も絞首刑ですけど、もっとずどんと落ちるタイプらしい。映画「私は貝になりたい」の最後の場面に出てきていたような気がする。
ギロチンが「人道的な理由」で作られたというのもなんとなく理解できちゃいます。

自分は死刑については反対なんです。
理由は3つ。
1.人間が捜査して裁判を行っている以上、冤罪の可能性が排除できないし、実際冤罪のまま死刑が執行されてしまったケースがあるわけで、それは単なる殺人ということになるでしょう。死刑は後で訂正はできない。

2.死刑が犯罪抑止力を持っているというのもかなり疑問な気がします。すくなくともそういうデータがないし、厳罰化が犯罪抑止に必ずしも結びつかないという例は他にもいくらでもあるわけで、死刑による抑止力もまた根拠が薄いものだと思います。

3.死刑は報復ではないということ。刑罰が守っているのは被害者としての国民じゃなくて、システムとしての国民だと思うのです。つまり法律は法治国家であることを守るためにあるわけで、遺族を慰める為に刑罰があるわけではないということ。もし、報復としての刑罰を認めてしまったら、刑罰に歯止めがきかなくなるでしょう。


いや、まぁ普段そんなこと考えてるわけじゃないけど、DeathNoteという漫画を見て、ふと「悪い奴は死ね」と軽く言えてしまうことの危うさみたいのを感じたので。
それと裁判員制度が始まると、マジで死刑かどうかについてのジャッジをしなくてはならない場面に出くわす可能性もあるわけで、「12の怒れる男達」みたいなことがあるのかな、と。

今年の人

たまには真面目なことでも。
年末も押し迫るとこういう今年を総括する話題が多くなりますね。

米誌恒例の「今年の人」に「YOU」

例の今年の人はなんと田代「YOU」ですって。なるほど、そういうのもありなのか。
確かに今年は個人のもつ情報発信力がより強化され、YouTubeのようにリッチコンテンツを配信することを可能にする手段すら手に入れて、個人は益々力を持つようになるんでしょうね。

日本で言えば、有名人や芸能人でもない人もまたWebの世界では「公人」であることを思い知らされた年でもあったように思います。相次ぐBlog炎上事件やmixiでの個人情報流出、P2Pソフトを通じた情報漏出などが頻発して、Webは西部開拓時代のような無法地帯であることをあからさまな形で露呈しました。
Web2.0な時代が確実に来ていることを誰もがうすうすと感じ始めていて、来年はWebの大勢は一気にWeb2.0へとシフトしていくことになるでしょう。そこではYOUとYOUの関係とコミュニケーションがより有機的・複雑化して、良くも悪くもコミュニケーションプラットホームとしてのWebが定着していくんでしょう。

とりあえず、このTIMEの最新号でも買ってみます。

著作権とか

めんどくさい話なので、暇じゃないひとは飛ばしてください。

YouTubeでBjorkのライブ動画を見ていて、著作権とかについてちょっと考えた。このライブはハンディカメラが持ち込み可だったらしく、こうしてアイスランドの映像が日本でも見られるわけで、しかもマニアしか見たがらないもの(SugurCubeはBjorkがソロになる前にいたバンド)だと通常のメディア媒体で流通することはないでしょうし、YouTubeの持つ魅力ってこういうところにもあるんだな、と思いました。

それ(著作権)に関連してこんなのが話題ですね、最近。

「著作権保護期間の延長を」――権利者団体が要望書 ネット時代も意識

「著作権保護期間の延長、議論を尽くせ」――クリエイターや弁護士が団体発足

以前の著作権の概念が通用しなくなってきて、情報が一瞬で世界を駆け巡る時代を見越したシステムが要求されているのに、なんだか議論が旧態然としていて残念。もっと現実的な制度とかを考えるべきなのでは? 創作物も死蔵されているようでは意味がないはず。
確かにお金が創作者に還元されるというのは大切ですけど、死後50年後とかにその創作者にお金が入ってもしょうがないのに。

せめて、「オレの作品は死んだ後はフリーだ!」とか自由にドメインを決められるようにしたほうが現実的だと思う。


ちなみに、当ブログの記事とかについては、自分が死んだ後は焼くなり煮るなり好きなようにしてくださいw。

複雑に理解せよ

座右の銘の一つ。

世の中にある数々の問題はとても複雑だし、個人的な問題であってもそこそこ複雑だったりするわけで、それらをシンプルに理解してはいけないという戒めでもあります。
どこで知ったのか、自分で編み出したのかは忘れてしまったのでわかりませんが・・・

そう、なんでこんなのが突然出てきたかっていうと・・・わすれた。健忘症かな・・・

そう、それで思ったこと。
最近話題の「いじめ問題」について。何を今更という感じで薄く怒りを覚えたりもしたんだけど、ちょっと冷静に考えてみると「いじめ」なんてのは常にどこにでも存在しているもので、それが時々「いじめ問題」に化けるんですよね。
もうすでに「いじめ問題」というワードを使っている時点て思考がそこでストップしちゃう。なぜそれが問題なのかという思考をキープするのって、結構難しいことなんだと思う。人はそりゃ、小難しいこと考えるよりシンプルに考えるほうが楽だし、楽しいからそっちを選択したくなるから、適当なフレーズとか与えて理解したことにしちゃうことが往々にして起こる。でも社会的な「問題」となると、とてつもなく複雑きわまりないし、ワンフレーズで表現できちゃうことなんてあり得ない。

複雑なことは複雑なまま理解しなくちゃいけない。そうでなければ頑健な対策は出てこない。
複雑な理解はタフなことだと思うけど、その為の思考ツールはいろいろ開発されているし、一人じゃなくて多人数で理解するとか方法はいろいろあると思う。

それで、もっと自分の脳みそを鍛えないとな、と思う今日この頃です。

「教育問題」って

教育基本法が改正させるらしいですね。
黙っていようかと思っていましたが、やっぱりちょっと言わせてください。

ダメだこりゃ。
何がやりたいのかさっぱり分からない。
そもそも何が「教育問題」なのかの定義すらはっきりさせずに、大人の都合に合わせて法律を変えたいだけとちゃうんかと。
もし、学力低下とかいじめとか、不登校とか、そういうのを「教育問題」というのならそれに対する解決策が愛国心ですか。
いや、そうじゃなくて「教育問題」というワードを駆使して、指導者層に都合の良い国民を生産することを「教育」だと再定義するのが目的なら、今回の改正は至極当然のことでしょうね。まぁそれが近代国家におけるそもそもの教育の意義でしょうからね。そういった意味では彼らにとって戦後教育はかなり奇妙なものだったのでしょう。

自分の考えでは、もし教育に関して問題があるとしたら、その責任は「教育をする側」にあるのに「教育をされる側」がつねに問題の被害者になってしまうということ。教育が不十分であればそれを充足してやることがする側の責任だし、教育が不適切ならそれを正すのもする側の責任。でも問題はいつもされる側で起きていて、それを問題として認識するのはとても大変だということ。
実際、子供達を教えていた立場にあった経験から言っても、問題認識はとても難しい。どれだけ密なコミュニケーションをとることができるのか、ということが大切だと何度も痛感さえられました。
そういう、子供の側にちゃんといるべき大人が不在になっていることが一番の教育に関する問題だと感じています。

そういう問題の本質は何なのかを、自分なりでもいいから、ちゃんと示せすことをせずに、都合の良いように法律を変えてしまうことはひどい話です。
他の国のことは知りませんが、日本人はとりあえず「勉強」には関心があっても「教育」には関心がないのでこういうことは必然的に起こるんでしょう。

まぁちょっと法改正されたぐらいで、気骨のある教育者の人は揺らがないと信じているので、がんばってほしいものです。

貯蓄と時間選好率

ちょっと面白いワーキングペーパーを発見したので。

日本の貯蓄は過剰なのか:あるいは欧米主要国の貯蓄が過少なのか

(1)我が国の貯蓄率は、時間選好率をゼロと仮定した場合3、最適貯蓄率に近くなるものの、時間選好率として実質金利を用いると、大幅な過剰貯蓄となる。一方、ドイツを除く欧米主要国では、70年代後半以降、時間選好率として実質金利を用いたケースで、実際の貯蓄率と最適貯蓄率が近くなる一方、時間選好率をゼロとすると過少貯蓄となる

(9)このように、従来みられた我が国の高貯蓄率は、長期間に亘る成長の極大化という観点からは決して過剰とはいえなかった。但し、その安定性に関しては、(i)欧米諸国が70年代以降経験してきた資本市場やコーポレート・ガバナンスの変化の到来が単に遅かった、及び(ii)我が国の家計貯蓄率が、所得を巡る不確実性の増大から上昇する局面では、政府支出の拡大(政府貯蓄率の低下)により、貯蓄率の一層の上昇(最終需要の一層の減少)に歯止めを掛けることが出来た、等の特殊事情に負う面が大きいように思われる。


つまりこれからは、時間選好率が上昇して、消費が拡大局面になるということですかね。
むしろ金融市場はさらに活性化すると考えたほうが良さそうかも。日本版401(k)こと確定拠出年金が始まって、個人も金融市場で重要なプレイヤーとなり、実質金利などに敏感になることでしょう。

高収入を得たければ資産をうまく運用するしかない、という時代はもう来ているわけだし、少しは金融の勉強もしないとなぁ。お金を沢山貯めている人がお金持ちなんじゃなくて、上手く運用益をあげている人がお金持ちということになるんでしょうね。

それでもチキンを食べる人

ふぅ、結局昨晩、ラーメン食べて、ビール飲んで寝たら元気になりました♪ たんじゅ~ん♪

さて、それでも何か身体の深いところに疲労感が残っているのですが、がんばってみます。とりあえず、飲み会を。

話は変わって、
「カーネルおじさん人形を燃やしてKFCを抗議、動物愛護団体」
というニュースが。
「う、うちのおじさんになにするだーー!!」
という感じですが、うんうん、残酷だよね。うんうん、鳥さんがかわいそうだよね。うんうん、動物は愛護しないとね。

でもオレはチキンを食べる。

いつも思っているんですけど、動物愛護と肉食は両立するんです。つまり動物を愛した上で食べる。これは充分ありえると。
問題があるのは、本当は残酷にぶっ殺してできた死体を食しているという自覚がない消費者なんです、きっと。オレは自覚した上で食べます。だっておいしんだもん♪
または、そういう残酷さを知らないということで、消費者の選択のチャンスが無いのはちょっと問題だなとは思うんです。今どき自分の庭で鶏を飼っていて、締めた経験のある人なんてほぼいないでしょうから。
残酷さと引き替えにしてまで食べたくないという人は食べなくてもいいと思うんですけど。

まぁ、何はともあれカーネルおじさんは悪くないし、KFCはとってもおいしいよ。

必須科目不足問題

なんだ、そりゃ、というお話。>>必須科目不足問題
かわいそうなのは受験生だけど、そりゃ必須科目を飛ばすわけにはいかないでしょう。

というか、気になるのは負担が大きいからむしろ減らせという声があるということ。受験に不要な科目は勉強しなくてもいいようにしてほしいと。
そりゃおかしいと思う。世界史は確かに受験には必要ないけど、世界史を勉強することが無駄なことだとは思わないんです。マニアックなところまで暗記することはないと思うけど、世界史を勉強することで世の中を見る視野はぐんと広がり深くなるし。受験に使わない=不要 という論理が通用するなら世界史どころか、そのほかの体育とか美術とかいらなくなってしまうでしょう。本当に受験に必要な科目だけ勉強しているだけでいいなら、高校必要ない気がするよ。自分は世界史とか地学とかまったく必要なかったけど、楽しかったし、いろいろものの見方が変わったし、有意義だったなぁ。

まぁ実際問題、受験のことを考えていると、そこまで余裕はないというのは分かる話だよね。特に理系の負担が大きいという話だけど、逆に言えば文系の負担が小さいということになるのかな。どちらかというと、理系が社会科を学ぶのは必要なことだけど、文系が理科が受験に必要がないというのも変な話だと思うけど。

ちょっと考え事。

最近、政治の世界でちょっとだけ核武装論が出てきているようですね。
ふぅむ、北朝鮮が核兵器をもったことに対する対策という意味での核武装論ということなのでしょうが、はっきりいって意味ないでしょう。むしろそれ以外のところでマイナス影響が大きいと思われます。

それより心配なのは包括的核実験禁止条約(CTBT)の枠組みが事実上崩壊してしまっていることです。まぁ、CTBTはまだ発効していないのですが、事実上の核保有制限の国際的枠組みとして用いられてきたわけで、その枠からどんどんはみ出していく国が出てきたことは非常に危険な事態です。
核爆弾自体はそんなに開発が困難なものではないし、技術があればあっという間に開発できちゃうでしょう。まさに地球にできた癌のような存在と言えるのではないでしょうか。あちこちに転移が始まっている段階にきていると。
この事態の打開策は、その糸口すら見えないわけで、地球のすべての地域に核兵器がある状況になるのは時間の問題でしょうね。

そうなった際に、核兵器を使わせない枠組みをなんとかして構築しないと、人類はマジで滅びます。まぁいつかそうなる運命にしても、それを少しでも遅らせるのがいま生きている人間の責務でしょうからね。

ひとつ希望を見出すとしたら「世論の支持がなければ戦争はできない」ということです。意外にも歴史上、国家が戦争をする際には世論の支持が絶対条件だったのです。アメリカだって第二次大戦に参戦したのが遅くなったのは世論の支持が無かった為だったし、イラク戦争だって当初は力図よい支持があったわけで、戦争指導者は支持をしてくれる人がいなければ戦争はできないということです。
逆に支持があればなんでも出来ちゃうのが怖いところですが。。。

国家に属さない人間が核兵器を持ってしまった場合は、とても危険です。歯止めが利かないでしょうし。これが一番危険な事態で、テロ組織のようなところに渡らないようにしないと。

ふうむ、もしかしたら国家という枠組みではもはや人間活動をコントロールできないのかもしれませんね。そろそろ何か別の枠ぐみが出来てきてもよさそうな気がするのですが・・・

「びーばーの巣あな」はブログです。

mixiってやっぱり怖いと思う今日この頃。
いや、セキュリティ的な問題というわけではなく、なんか他人のいろいろが見えすぎるかなと思うことがあるんです。大人になるとみんな上手いこと自分を表現することを身につけて、face2faceのコミュニケーションでも自分を守り相手を守ることができる(だいたいの場合は)ようになっているはず。

でも日記って、本来自分に向かって書いているものだから時に遠慮なしの何かみたいなのが炸裂しちゃうことがあると思うんです。いや、mixiも公開日記という性格上それでもオブラートに包まれてはいるけど、それでも輪郭とかが見えちゃう。自分のことでは泣けないけど、他の人のことでなら泣きたい気持ちになってしまうので、結構つらいときがあります。

それに他人の日常こそはエンターテイメントの基本であるわけだけど、むき出しの人格のようなものは自分にとって攻撃的ですらあると思うんです。だからテレビのバラエティって自分には時に苦痛だったりします。他人のしぐさや行動を笑ってないし、人を馬鹿にすることがエンターテイメントだとは思いたくなくて。


自分は他人とのコミュニケーションが苦手だし、自分を表現できないし、伝えたいことを伝えられないし、伝えたいことを形にするまでに時間がかかりすぎるんだと自覚しています。まともな形で伝えられたことなんて無いのかもしれません。


「サイトが新しくなって、何が変わったの?」と聞かれたことがあります。
実は根本的に変わったんです。昔の「びーばーの巣あな」は“手紙”なんです。他の人にあてた手紙のつもりで書いていました。
いまのサイトは“ブログ”です。日記に近いものにしようと思ってリニューアルしました。まぁ、結局は“手紙”とまぜこぜになっていますが、前ほど面白いことを書こうという気持ちがなくなったのは確か。
でも公開することで、自分を表現するものの一つとしてのブログを書いています。

もちろん言葉にすることでほとんどのものが捨象されてしまうのは間違いないですが、それでもそのときの自分のほんの一部でもココに書き留めて生きたい、そう思って書いています。自分の記憶だけでなく、誰かの記憶の片隅を借りて今を残してみたい、誰かに伝えたい何かがあるうちは書き続けたいと。


ここは「びーばの巣あな」です。
ここに僕はいませんが、僕らしい何かがあるかも知れません。

「びーばの巣あな」は日記ではないブログです。
伝えたいことがあるから、まだ続きます。

「びーばーの巣あな」はブログです。

mixiってやっぱり怖いと思う今日この頃。
いや、セキュリティ的な問題というわけではなく、なんか他人のいろいろが見えすぎるかなと思うことがあるんです。大人になるとみんな上手いこと自分を表現することを身につけて、face2faceのコミュニケーションでも自分を守り相手を守ることができる(だいたいの場合は)ようになっているはず。

でも日記って、本来自分に向かって書いているものだから時に遠慮なしの何かみたいなのが炸裂しちゃうことがあると思うんです。いや、mixiも公開日記という性格上それでもオブラートに包まれてはいるけど、それでも輪郭とかが見えちゃう。自分のことでは泣けないけど、他の人のことでなら泣きたい気持ちになってしまうので、結構つらいときがあります。

それに他人の日常こそはエンターテイメントの基本であるわけだけど、むき出しの人格のようなものは自分にとって攻撃的ですらあると思うんです。だからテレビのバラエティって自分には時に苦痛だったりします。他人のしぐさや行動を笑ってないし、人を馬鹿にすることがエンターテイメントだとは思いたくなくて。


自分は他人とのコミュニケーションが苦手だし、自分を表現できないし、伝えたいことを伝えられないし、伝えたいことを形にするまでに時間がかかりすぎるんだと自覚しています。まともな形で伝えられたことなんて無いのかもしれません。


「サイトが新しくなって、何が変わったの?」と聞かれたことがあります。
実は根本的に変わったんです。昔の「びーばーの巣あな」は“手紙”なんです。他の人にあてた手紙のつもりで書いていました。
いまのサイトは“ブログ”です。日記に近いものにしようと思ってリニューアルしました。まぁ、結局は“手紙”とまぜこぜになっていますが、前ほど面白いことを書こうという気持ちがなくなったのは確か。
でも公開することで、自分を表現するものの一つとしてのブログを書いています。

もちろん言葉にすることでほとんどのものが捨象されてしまうのは間違いないですが、それでもそのときの自分のほんの一部でもココに書き留めて生きたい、そう思って書いています。自分の記憶だけでなく、誰かの記憶の片隅を借りて今を残してみたい、誰かに伝えたい何かがあるうちは書き続けたいと。


ここは「びーばの巣あな」です。
ここに僕はいませんが、僕らしい何かがあるかも知れません。

「びーばの巣あな」は日記ではないブログです。
伝えたいことがあるから、まだ続きます。

核爆弾とは

だいぶ話題に上ることが多くなった核問題について、冷静沈着に、とりあえず核爆弾の復習からはじめてみました。


・核兵器製造のステップ
核物質の入手→起爆装置の開発→運搬装置の開発


・そもそも核爆弾とは何か
核爆弾と呼ばれている爆弾は、原子核分裂反応を連鎖的に短時間に引き起こし、強力な熱と衝撃派で周囲を破壊するものです。
核物質は通常の状態では連鎖反応を引き起こすことはありませんが、ある条件を満たすと爆発的に反応が起きます。ある一定質量以上のウラン235もしくはプルトニウム239を集めると自然と反応が起きます。この質量のことを臨海質量といい、ウラン235の場合は約20kg、プルトニウム239の場合は約5kgとなっています。
原理としてはきわめて単純である一方、核物質を手に入れることが難しく、核兵器製造への壁となっています。

続きを読む > "核爆弾とは"

うおっ、クーデター

タイでクーデターが起きているようです。
大変ですよ、これは。

朝になってどう事態が動いているか注視すす必要がありそうです。

続きを読む > "うおっ、クーデター"

飲酒運転

最近何かと話題の飲酒運転。
免許の更新講習の時に、飲酒運転には二種類あることをしりました。

1.酒気帯び運転→呼気中アルコール濃度0.15ミリグラム以上
2.酒酔い運転→特に数値基準はないが、「酔っている」と警察に判断されたとき。

呼気中アルコール濃度0.15ミリグラム以上という基準は、2002年にそれまでよりも基準値を下げたものとして決まりました。国際的に見てもかなり低い水準だそうです。
酒酔い運転のほうが酒気帯びよりも罰則が厳しいものとなっています。


まぁ、それは別にいいです。そもそも飲まなきゃいいわけですし。
それよかきになるのは「なんで公務員は飲酒運転で懲戒免職になるわけ?」ということ。

そう、なんで公務員だけなんでしょう? 一般の会社の場合はいったいどうなっているのか良く分かりませんが、一発で懲戒免職になるという話はあまり聞いたことがありません。特にトラックなど運送業の場合は免職するわけにはいかないでしょう。
公務員に対してだけ厳しいのはちょっとおかしいと思うんですけど。

マスコミが数ある飲酒運転の中から、公務員が関わっているものだけを拾い上げて報道しているのが大きいし、ちょうど悲惨な事故がおきたこともあってそういう流れになっているんだと思います。これは絶対おかしい。
やるなら法律ですべての運転者に対して罰則を強化しないといけないと思うんです。じゃないと法治国家における平等の意味がおかしくなっていると思うのです。公務員だけが特別なわけじゃないんだし。

どうもこの件に限らず法律の元の平等という意識が、最近どんどん薄くなっているように感じるんですけど、どうなんでしょう。

休日の電車

今日は、オアゾにある丸善にいって本を買ってきて、出勤。WindowsServer2003に関する参考書がほしかったので。さすがに丸善本店の品揃えはさすがですね。

そうそう、眼鏡屋の友人がいるかどうかお店をのぞいてみたんですけど、見当たらなかったのでメガネ作りはまたの機会。

休日の電車って不思議な雰囲気がありますよね。とてもゆるい空気が車内に満ちていて、穏やかな表情が多い。子供の姿を多く見かけるのも休日の特徴ですね。たまたま隣におんぶされた小さな子がいて、その瞳に興味深げに観察されてしまい、どんな表情をしたものかと困ったり。
小さな子の瞳には不思議な力があると思うんです。今まさに世界を学ぼうとしていて、その瞳に映るすべてのものがその子の世界を形作っていく。どんな風にこの世界は見えていて、自分はどう見られているのでしょう。
自分もそうしていた頃があったわけで、いま自分だと思っている人間の世界がどこでどうやって作られていったのか、もはや自分でも分からないわけですが、きっと見つめられて困った表情をした人がいたことでしょう。休日の電車の中で。

文献検索

修士論文でやっていることが、レビューの比重が大きい感じになってきてます。しょうがないんだけどね。

それで、文献アサリをせっせとやっているんですが、これがまた骨が折れる。
やっている内容が環境に関するシナリオプランニングの手法についてなのですが、これに関する文献のありかが全然わからないのです。なにかのジャーナルにまとまっているというわけではないので、ジャーナル横断的に論文を探したりするわけです。

このとき便利なのがうちの大学の電子ジャーナル検索文献データベース。研究室にいながらにして、じゃじゃん論文を集めることができちゃう♪ ただ、ヒットするのはほとんど英語のため、内容の精査に手間がかかりすぎる。泣きそう。もしかしたら、研究が終わるころにはTOEICの点数が100点ぐらい伸びているかもしれません。

検索していて困るのは、電子ジャーナルに抄録しか掲載されていなくて、本文を図書館でゲットしなければいけない場合。それも、うちの大学にあるならいいものの、他大からの取り寄せとなると・・・かなりめんどくさいです。けち臭いことしないで、全部ネット上にアップしてもらいたいものです。有料でもいいからさ。

さて、今日はあと5本くらいは退治しないと。
今週はず~~~と雨みたいなので、雨読しています。

9.11に寄せて

33945993.tribute87.jpg 昨日であの9.11同時多発テロから5年です。学部一年生の時、ニュースであの映像をリアルタイムで見ていた時のことを今でも覚えています。

 あの日犠牲になった方々、それ以後犠牲になった方々のご冥福を心からお祈りいたします。

 あのとき一番に思ったことは「ついに起きてしまったか」という、ある意味の納得感みたいなものでした。
 事件以前からすでに世界は、宗教対立と民族紛争、テロがあちこちで燃え上がっていました。冷戦構造崩壊後、どうにか安定を保っていた秩序があちこちでほころびを見せ、それに替わる秩序を皆が探し求めているなかで、そういった紛争が起こっていました。
 しかし、秩序を求めるそれぞれの思惑が対立し、紛争化することによって紛争そのものが目的化される自体が起きてきました。いわゆる憎しみの連鎖です。
 その流れの中でWTCは崩れてしまったのです。

 自分の中で何度も考えてみました。この状況の行き着く先はいったいどのような世界なのか。
 そして、自分なりの一つの結論として「多極型世界となり、極はお互いに干渉することをやめて、それぞれの中に閉じこもる。交流はお金だけの関係となり、時たま暴力が境界を越えるも大勢に影響を与えない」というものを出しました。
 欧州、北米・日本、アラブ世界、中国、南アジア、第三世界のような極の中に閉じこもることになるでしょう。相互理解の努力に疲れ果てた世界は、理解する努力をやめ、強烈なナショナリズム・民族主義に染まり、分かりあえる同士のグループを形成し、その中で文化や政治の交流を深めていきます。この形でいったん世界は均衡状態となるでしょう。経済の交流はこれからも促進されますが、あくまでお金の関係であり、交流にまではいたりません。その形で世界が安定した場合は、戦争は基本的に起こらず、時たまテロが発生するぐらいの世界となるでしょう。
 国連も紛争解決などに対して有効な力を持てず、紛争などもかくグループ内の組織で解決することになります。国連の役割はきわめて事務的で限定的なものになります。
 いま世界は確実にそういう流れにのっていると感じています。


 そういった流れの中に日本もいるわけです。最近急激に高まりを見せるナショナリズムというか民族意識がそれを感じさせます。世界との交流を深めることで逆に自らの立ち位置の確認を迫られ、それが民族「日本人」の確立へとつながっていっているように思えます。今まで「日本人」であることを意識しなくても生きていけたのに、現在は「日本人」として生きていくことを迫られているわけです。ただ、「日本人」とは何者であるかということについては、日本人自身かなり無頓着で、「東京都民」とか「千葉県民」と同じレベルの扱いであることも少なくないように感じます。
 政治の世界で愛国が説かれるのは、どの国へ行っても同じだと思います。しかしアメリカ人の愛国と日本人のそれが違って感じるのはなぜか。これはおそらく日本人が思っている「日本」と、政治家の言っている「国」の概念が遠く離れているからなのだと思います。「日本」という言葉からは国家体制などを連想することは難しく、政府とも違うものだと感じています。むしろ「日本」という言葉から連想されるのは歴史・風土・文化などであって、日本人が愛したいのは「国家」ではなく「日本」であるのに、政治家が言っている「国」は体制を指していることが多いように思われるからです。
 したがって「美しい日本」は憲法を改正しても実現できないように思われるのですが、そこら辺をあいまいにするのが政治家のお仕事です。憲法が規定するのは「国」であり「日本」ではないということを理解している人は少ないと思います。自分が感じる憲法改正論の危うさはそこにあります。


 9.11の後、世界は憎しみの連鎖から抜け出すことができず、犠牲者がこれ以上増えないための方策もまた見つからず、それぞれが守りの体勢に入っています。どうしたらいいか分からないまま、犠牲者が増え続けている現状。生きている自分たちにできることは、ただじっと見つめるだけしかないのかもしれません。

 生者が死者をうらやむ時代にならないことを祈って。

2009年07月
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